自分の感受性くらい

2007年1月20日 04時34分 | カテゴリー: 日々雑感

モノローグよりダイアローグを、と茨木のり子はいった

毎日、いろいろな方にお目にかかる。政策から派生して、いろいろなお話をする。100人に出会えば、100の対話。もちろん、ご多忙の中、ご挨拶程度のことも多い。でも、不思議、初めてお会いした方からお聞きすることに次々と発見があり、気持ちが通じて、またお会いしましょう、と言われることもよくあるのだ。
昨日は、「あなたは茨木のり子が好きなの?現代詩人を知っている人は少ないでしょう」と団塊の世代の男性からおっしゃられた。そこから、共通して知っている詩人、そう例えば、大好きだった白石かず子、入沢康夫、天沢退二郎さんたちの近況を伺った。詩を聞きに出入りした新宿ATGや渋谷のジァンジァンのことなど、好奇心と感受性というものだけで過ごしてきた毎日を思い起こした。
モーリス・ブランショに触発された南仏の旅、CDとLP盤の音の表現の違いやデジタル本と紙に現された本の話なども伺う。最後に、「ゴヤのファースト・ネームを知りたい夜もあるんですよね」と私がいうと、その方はにっこり笑って「また、『世間話』しましょう」と。ああ、なんと上等な「世間話」だったことか!

そういえば、先日、知人から、共通の知人である方から私に伝えて、というメモをもらった。「ねふがはの海」とあった。?・・・帰り道に思い当たった。「根府川の海」だ!と。茨木のり子の初めての詩集「対話」の一篇だ、家について、再び読む。敗戦の翌年にはたちを迎えた茨木さんの鮮やかな言葉。丈たかいカンナの花 おだやかな相模の海、そして「ひたすらに不敵なこころを育て」と言葉が継がれる。

ストレートな茨木のり子の「言の葉」が、これまたストレートに私と人を結びつける。
歩くことは力、出会うことは力。これほどに未熟で、もっているものはこれだけだけれど、この頃、前から後ろからどこから見られても、もう怖くないな、と思えるようになった。これが私だ、もう気取るものも隠すものもない、って。(大塚恵美子)