「ハンセン病療養所の歴史を語る」連続講演会

2008年6月30日 00時22分 | カテゴリー: まちづくり

6月22日・29日、ハンセン病資料館で連続講演会が開かれた。今日の午後は、瀬戸内海の小島にある大島青松園での日々を神美知宏さん(全療協事務局長)のお話から伺った。
「多磨全生園」のある東村山市に住まわなければハンセン病のことを、こんなに身近に感じなかったかもしれない、そんな思いを私は時々抱くのだ。今日のお話は、先日の新聞で読んだ「生きている図書館」に通ずるものだ、と思う、忘れ得ない蔵書が一冊増えたような。

神さんのお話からは、彼の携わった全療協の57年に亘る運動も、市民権があるのか、市民の理解を得ているのか、との自問があった、とされた。1996年のらい予防法廃止、2001年の熊本地裁「らい予防法」違憲賠償請求の原告勝訴、そして過日、国会で制定された「ハンセン病問題基本法」への変遷。基本法制定に向け、短期間で集った93万人の署名こそが社会から孤立していないことを証明した、と淡々と話された。
観念的差別は、理屈では超えられない厚い壁、とされ、ゲートボールで香川県大会に出場し、全国大会でも4年連続1位を果たした青松園チームの奇跡が、療養所外の人たちを自ら「棄民の島」へ導き、人間同士として触れ合い、偏見と差別が見事に解消されていく、胸のつかえが晴れるような、すてきな話を聞く。
神さんが17歳でハンセン病を発症し、実家から遠く離れた大島青松園に強制隔離され、偽名を強いられた人生を歩み出したのが、私の生まれた1951年(昭和26年)だ。その当時すでに特効薬プロミンが開発されていたにも関わらず、らい予防法には入口があるだけで絶滅政策が一貫して執られていたということだ。
昭和4年、「無らい県運動」によって国、県、市、保健所の指導で草の根をわけるような患者捜しが始まり、人々に恐怖を植え付け、差別を助長したことが、ハンセン病政策の大きな誤りであり、また強制隔離によって患者が見当たらなくなったことが無関心を拡げることにもなった、と。
昭和33年が入所者のピークで全国13カ所の国立療養所に12000人がいらしたが、現在は2717名、平均年齢は79.55歳、すべての人が元患者、回復者であるが98%の人が合併症をもつ。「ハンセン病問題基本法」が制定されても全てが解決したとはいえない。

今日、手にした本年5月発行の「ふれあい福祉だより」の中で、渡部市長が入所者自治会長の佐川修さんたちとの鼎談で、ハンセン病を知ったのは白戸三平の漫画だったこと、その後、市内に療養所があることを知ったことなど率直に話され、全生園があることによる市内の子どもたちに対する人権教育のあり方などを語られていて、いいな、と思った。
医療から切り離せない高齢の入所者に対し、充分な医療が提供できるか、外部の市民にも施設が開放されるような地域に門戸をひらく政策が保障されるのか、まだ不明である。東村山市が進めている「人権の森構想」だが、全生園の将来構想と医療問題がまさに試されるのはこれからだ。(大塚恵美子)