陸軍少年通信兵学校

2008年8月15日 23時33分 | カテゴリー: 平和・憲法など

終戦63年目に

ふるさと歴史館で開催中の企画展に行く。63年前の東村山の知られざる歴史にふれる。
富士見町1、2丁目の現在の東村山市立一中、明治学院、南台小、日体大桜花、明法学院といった学校が並ぶ文教地区が敗戦時までの4年間、少年通信兵を育成するための陸軍の軍事施設だったことを私は知らなかった。昨年8月の特別展「学童疎開」に続く歴史を風化させず、掘り起こし、次代に伝える企画となっている。
1941年に勃発した太平洋戦争の戦時下に通信下士官の急速な補給が必要となり、15歳から18歳までの少年兵を全国から募集し、1,2年の短期間で軍事教練、モールス符号などの通信技術を養成したという。広い敷地には、大講堂や教室のほか、8個隊の宿舎など多数の建物があり、最寄の八坂駅(当時は武蔵野鉄道)は、少年通信兵学校と陸軍兵器補給廠小平分廠を結ぶ利便性のためにつくられたことも知る。
さらに、現在の国立武蔵療養所の前身は、傷痍軍人武蔵療養所だったこと、都立中央公園が通産省のリニアモーターカーの試験場跡地だったことは知っていたが戦時中も商工省の機械試験所だったことなど身近な地域の歴史、軍政のあらゆる拠点を押さえる威力を知った。
残された写真を見ても、「皇軍の一員」として敵を倒すための教育を受けた少年兵は15歳とは思えないほどの顔つきである。モールス符号を分速80字で打電し、携帯できる打電機を屋外に持ち出しての訓練、狭山丘陵に大本営通信所の予備施設として通信壕を掘るなど、出兵し不足する成人に届かない少年までをかき集めなければならなかった戦況である。東村山で3年間に訓練を終え、送り出された2000人の少年下士官が出兵した先は、北方であり、ルソン、ミンダナオ、マニラなどの南方の戦地であり、戦地に赴く以前に輸送される軍艦が沈没したり、東村山の地で4回に亘る空襲、機銃掃射で命をおとした少年兵も多い。
東村山の周辺には、所沢飛行場、立川飛行場、村山陸軍造幣廠があり、狭い国土に国をあげて、少年兵まで速成しての総力戦の戦時体制の跡がみえる。各地に残る戦争の意味を埋没させない取組みをこれからも絶やしてはいけない。
今なお、グルジアとロシアの例にもれず、政府の起こす戦争が市民生活を絶望に陥れ、生きる権利が剥奪される現実がある中において。(大塚恵美子)