石巻市雄勝町 被災地支援に

2011年7月26日 11時39分 | カテゴリー: 政治を変える

22日、23日の夜行日帰りで、宮城県石巻市雄勝地区に出かけてきた。同じ会派の奥谷議員の紹介で、奥谷議員、佐藤議員と一緒に、民主党が主催する第13次被災地支援活動へ参加させてもらった。今回は、石巻市の中心市街地から北東の牡鹿半島の付け根にあたる石巻市雄勝町へ。石巻と気仙沼の中間あたりに位置する静かな入江のホタテや牡蠣の養殖を行なう約4000人の漁師町だが、小さな集落にわかれ、近くには女川原発がある。
バスで衆議院会館を夜11時に出発、高速道路を下りて沿岸部へ向い北上川を渡る。行く先々で、津波の猛威を実感する。体育館の上にバス、空洞となった家々や学校、瓦礫の山、壊れ放置された車輌。人の姿はない。その反面、全く被害を受けていない地域や水田も混在する。明暗がどのように別れたのか。明け方に時間調整をしつつ朝8時半に現地に到着となる。

終点は、静かな湾の奥、海と小高い斜面に囲まれた風光明媚な土地だったことがわかるが、今は数隻の船が漂うだけで、全く漁村としての活気はなく、静かに波が打ち寄せる。
今回の参加者は70人、それぞれに長袖長ズボンに作業靴、長靴といったスタイルに防塵マスク、ゴーグルをかけて、8つの班にわかれて、作業を行う。わが8班は奥谷班長を中心に9人編成、うち女性は3人。
堤防の一部が決壊し、道路のアスファルトが壊れ、流されている。あたり一面、津波の威力によって瓦礫にまみれた家々の土台石、門扉、塀などから、暮らしのある集落であったことをうかがわせる。高台近くには半壊倒の家々が残り、中は空洞で屋根に瓦礫などが乗っていることから津波の流れ込み方や高さがわかる。うずたかく積まれた瓦礫の山もあることから、この4ヶ月、自衛隊や救助の手、復旧の作業も入ったと思われ、新しい電柱が立ち並び、高台には仮設住宅が建ち並ぶが、まだまだ、片付けは進まず、本格的な復旧は道半ばにあり、暮らしの戻る復興というのはいつになるのかと思う。

8班は、目の前が海辺の牡蠣の加工場の瓦礫撤去などを行なった。昨年、建築したばかりという加工場のコンクリートの基礎・土台と腰高のコンクリート躯体、消毒水槽などが残っているだけで、あちこちに残骸がへばりつき、漁具が絡みつく。津波が持ち去らなかった腰高の壁面に残る木製の部分、断熱材などを取り除き、ガラス、コンクリート、スレート片、木片、プラ類などに分別していく。
休憩もお昼も撤去のすんだ場所で車座になってとる。ここ数日の涼しさで炎天下でないことは多いに助かる。海に向かい合えば、何事もなかったように静かな風景が広がる。
トイレのために仮設住宅に向うが人には会わない、仮設でご夫婦に挨拶をした程度。家々の土台や斜面に、茶碗、バトミントンのラケット、パジャマ、置物、おもちゃ、電化製品、枕など、生活のかけらがたくさん残る。その傍らで野の花が咲き風に揺れる。
霧雨の中、牡蠣の加工場を仕上げ、午後は、民家跡地の瓦礫撤去を手伝いに入る。倍増の人数で、着々と瓦礫が仕分けされ、午後の休憩の終りごろに、地震が起きた。ゴゴーツ、と低く地鳴りが響き、地面が揺れた。長い時間ではなかったものの、大きな揺れだ。
一同、津波を怖れ、高台に非難。そこでは地区の方3人が不安そうに海を眺めていらした。震源地は岩手県内陸部の遠野で震度5強とのことで、津波の心配はないとのことだったが、心残りではあるが、予定より時間を早め作業終了ということになった。東京帰着は夜の11時近く。

阪神淡路大震災の教訓はこれだけの広い範囲の被災地に対し、活かされないことを思う。瓦礫の撤去率や復興の手立ても岩手、宮城、福島の3県では異なる。支援も全ての地区に行き渡るわけではなく、雄勝のような合併された小さな集落は置き去りにされがちだ。被災前にあっても、若い人が都会に出て行くような過疎な集落の被災状況を見ると、復興を想像するのはつらい。精神論だけでは復興を可能にしない。
作業を含め、短い時間ではあるが、状況を知ったことにより、民主党政権を含め、国が、ひとりひとりの私たちに何ができるかが問われる。(大塚恵美子)