浪江町の一時帰宅に同行する

2012年12月16日 04時05分 | カテゴリー: 政治を変える

 

波頭の向こう岸に福島第一原発、乱立した煙突が見える。

14日早朝に東村山を発ち、福島第一原発の20キロ圏内にある福島県浪江町の第6回目の町民一時帰宅に同行した。「子どもの未来を考えるゆるやかなネットワーク」の仲間・森原さんとフォトジャーナリストの豊田直巳さんとともに。この日は、検問所を越え50組の世帯が5時間、町の中にいたはずだが、出会った人は海辺ですれ違った車とパトロールの警察の車輛くらい。 合併によって、町のプロフィールはひとつではなく、津波によってすべてが流された請戸の地区、浪江駅周辺の地震によって家が倒壊したり瓦が落ちたままの地区、川に挟まれた谷の地区で極めて放射線量の高い地区など。そしてそのどの地区も放射能に汚染されてしまった。今後、3区分に分かれることになるようだが、今は町民が自分の家に立ち寄れるのは3か月に1度だ。 

4代続いたSさんの「こうじや」、大正時代の蔵と作業場、傾く煙突。

3.11で日常が停止した町。知人のSさん、Iさんの自宅に伺う。数々の崩れた家もそのまま、畑も宅地も道にも、背の高い雑草、セイタカアワダチソウなどが立ち枯れ、茶色の風景が拡がる。Iさんの家には、秋が深まってから鼠が家の中に入ってきたという。前回の帰宅時に仕掛けた小さな罠を回収、8匹の鼠の姿が。近くのアパートの庭に転がった三輪車、干したままのバスマット、めくれたカーテン。

 

「こうじや」母屋の日めくりは11日のまま。時間は止まった。

 Sさんは味噌・醤油の醸造所「こうじや」の4代目。近代的なコンパクトにまとめられた工場、店舗に伺う。ほのかに味噌のよい香りがする工場に、仕込まれた味噌樽がずらりと並ぶ、何事もなかったように。持ち込まれた米から作った味噌も数樽あり、3.11に配達されるはずだった。母屋の日めくりのカレンダーは3.11のまま。お茶を飲んでいた食卓、食器棚からこぼれ落ち散乱した食器、あっけなく失われた日常。 大正時代の蔵は瓦が落ち、駐車してあった車は瓦と大谷石が崩れ落ちつぶれたまま。Sさんの家は原発から7㌔くらいか。

誰もいない市街地、駅、やってこない電車、錆つつあるレール、拡幅途中の計画道路が工事途中のまま放置されている。店は商品が飾られたまま時間が止まっている。

 

津波で陸地に漂着しまままの漁船が何艘も。無傷のものが多い。

海辺に行く。海水浴場だった浜も漁港も辺り一面あとかたもなく津波にさらわれたまま。たくさんの手が入ったのだろう、金属製の瓦礫がところどころうず高く積まれている。つぶれて放置された車、何艘もの漁船が漂着し陸地に置き去りにされたまま。
漁協の建物は躯体だけがかろうじて残るが窓に小型の船が突き刺さったままだ。

天気は上々だった。波頭の4㌔ほど先の岸辺の丘に、福島第一原発の一部が見える。煙突が乱立している。報道は全くされなかったが、4号機の燃料貯蔵プールに冷却水を送るポンプが故障し、応急処置に追われたと伝えられた9日頃に真っ白に吹き上げられていた水蒸気は見えなかった。
南相馬も浪江も浜側の放射線量は低くなっているが、川に挟まれた谷の地域、相馬焼の登り窯のある大堀地区のモニタリングポストは13μシーベルトを指す。持参したホリバの測定器は9.99を指したままフリーズ。測定不能に。

16日は選挙投票日。一体、誰が、この町に刻まれた「実害」に向かい合うというのか? 少なくとも言いたい、津波も地震も被害を小さくすることはできたのではないか。そして何より人災である原発震災を起こさないことは可能だった、と。
同じことを繰り返してはならない。 おとなは未来の子どもに明日を約束しろ!(大塚恵美子)