「東京プリズン」と「ハンナ・アーレント」と

2014年1月25日 08時20分 | カテゴリー: 政治を変える

  先日、生活クラブ生協が取組む書籍の共同購入「本の花束」が企画した初の読書会に参加した。赤坂真理の「東京プリズン」をテーマに12人が参加し、「本選びの会 現代社会グループ」のメンバー6人とともに、3つのグループに分かれての読書会、感想や思うことを自由に話し合う取組みだ。

 好き嫌いが2つに分かれ、難解ともいわれる「東京プリズン」だそうだが、私にとっては、あっという間に入り込んだ一冊であり、初めて会う方々との意見交換は新鮮で楽しく、さらに「東京プリズン」を基調にさまざまな思いが派生した。
現政権の暴走を許すがままの今、そして都知事選挙の最中である今、に私の回路は結び付く。

 「東京プリズン」は、「天皇の戦争責任」を軸とした戦後の日本のあり方、歴史認識、考え続けるとは何かを小説の力を借りて明らかにした赤坂真理の力作といえる。
 1980年に16歳のマリはアメリカに留学に出される。寒いメイン州の田舎にある私立学校では、ホストファミリーを含め、まわりはすべてが白人だ。進級試験の代わりに「ディベート」をすることになったマリの困惑。テーマが「天皇の戦争責任」だったのだから。東京裁判も、戦後史もほとんど記憶にない「戦争」に向き合わざるを得なくなったマリを30年後の40半ばになったマリが時空を超えて支え、16歳のマリとともに破綻したディベートに再度挑む。敗戦当時16歳だったママはいまや80歳を超え、一人暮らしをしている。ママに虚無のような30年間を超えて問う。なぜアメリカに留学させられたのか、語り合えなかったアメリカと天皇、戦争の断片を記憶を紐解くように。

 戦後、通訳をしていたらしい秘密を抱えるママのみならず、戦後に向かい合うことを避け、忘れたふりをしている日本人。神であり統帥権のある最高責任者の天皇とは何か。そしてママとの関係、16歳の自分の心象とは何か。折々の象徴的なシーン、大君やヘラジカといったシンボルが繰り返し出てくる場面に多少の違和感を感じるものの一気に読み進むことができた一冊。「プリズン」に囚われているマリを、私たちを解放せよ、との著者の思いに共感する。

 天皇が神ではないと知っていて、システム論的に天皇を使ってきた政治家、軍部。神でないとしたら神のために死んだ魂、英霊は行き場をなくす。人は神を必要とし神を利用する。勝者の裁きである東京裁判では、日本人が自分たちがどう負けるかを定義できなかった。できなかっかったことこそが負けであり、東京大空襲や原爆投下という勝者の過ちにも目をつぶってしまったことこそ負けだった。

 靖国神社への首相の公式参拝、3・11後も世界で孤立し暴走する政権、歯止めをかける手立てを失った日本。 私の中で映画「ハンナ・アーレント」が重なってくる。ユダヤ人としてナチスの強制収容所から逃げ、アメリカに亡命し政治哲学者となったアーレント。イスラエルで開かれたナチスの高官アイヒマンの裁判を傍聴し、アイヒマンの罪は「悪の凡庸さ」にあるとニューヨーカー誌に投稿し、上司の命令に従うだけの小役人と看破した。その投稿は波紋を広げた。アーレントの思想の展開であり、彼女が追及した真実であろうと、世界的にナチスへの擁護と受け止められユダヤ人同胞社会からも酷いバッシングを受ける。

 最期の講義でアーレントは学生たちに語る。考えないということの悪、自分の頭で思考し考え抜くことが人を強くする、と。考える能力、善悪、美醜を判断し、破滅に陥らぬよう、と語るアーレント。

 私の中で、「東京プリズン」と「ハンナ・アーレント」は、空気に支配されるいまの世の中を鋭く問う。(大塚恵美子)