3.11原発震災は終わらない

2015年3月11日 02時51分 | カテゴリー: 政治を変える

 

撤去前のJR常磐線富岡駅駅舎 2014年春

東日本大震災から4年目を迎えた。この4年の意味とはなんだろう。

復興庁227日発表の全国の避難者の数は229000人。昨年3月発表のいまだ故郷を失った原発事故避難者の数は13万人とされている。福島県立医大が行った福島県の18歳までの子どもたちの甲状腺がん検査では112人の子どもが甲状腺がん(疑いを含む)を患っている。1巡目の検査では異常なしだった子どもたちのうち2巡目の検査で4人の発症が新たにわかった。しかし短時間のエコー検査だけで、尿や血液の検査はされず、甲状腺がん以外の疾患についての検査は不十分だ。福島県立医大のデータ使用のルールも不十分で、県民の権利を守る第三者委員会が存在しないことも問題だ。

何重にも賃金をピンハネされ被曝線量管理もされない原発作業労働者の実態をユニオンの担当者から直接話を聞く機会を得た。これからオリンピック特需で労働者も不足し、被曝許容量以上の作業員の存在が見え隠れするが追跡調査はされていない。

原発震災によって不通だった常磐高速道は帰還困難区域である富岡ICから浪江IC区間の工事を終え、31日に全線開通、首相いうところの「復興の起爆剤」だ。除染によって35.9μSv5.4μSvに下がったとするが、こんな状況で本質を置き去りにして開通させることが復興なのか。これで復興とするのか。
私は常磐道が開通してほしいなんて思わない。
南相馬の海水に浸かった小高、友人が案内してくれた時間の止まった浪江の町、駅舎が壊滅した富岡の駅、浜から見た福島第一原発の威容、どこも遠かった。誰かの車か小さいバスで訪ねた。川俣、そして音の無い風景の飯舘村を抜けて行った日が多い。歯がゆく、一人で訪ねたい、と幾度となく思った。でも、安心、安全の証の如く、常磐道が開通することを願ったわけじゃない。嘘つくな!

汚染水漏れは隠ぺいされ海に注がれ、放射性廃棄物はたまり続ける。福島を訪ねれば、廃棄物のつめられた黒いフレコンパックがあちこちに野積みされている場面は日常である。処理方針は2017年まで示されず、中間貯蔵施設に汚染土の搬入が13日から始まり30年間保管される。

避難指示解除準備区域(放射線量年20ミリSV以下)、居住制限区域(20ミリ~50ミリSv以下)、帰還困難区域(50ミリSv以上)に分かれる福島第一原発周辺4町(浪江町、双葉町、大熊町、富岡町)で帰還したいと考える避難世帯は1~2割だ。一応の除染を終え、高速道路が全面開通してもだ。原発の安全性、医療体制、商業施設がないことが理由としてあげられるという。いくら収束や復興をかかげ、帰還を促しても、これが現実だということを政府はわかろうとしない。

現在の住まいは仮設住宅が53%、借り上げ住宅などのみなし仮設住宅が7%。住宅が再建できた人は3割に満たない。
原発事故後、政府が避難指示を出したのは原発から20キロ圏内の住民に対してだったが、徐々に避難指示区域を解除し年間被曝量20ミリSv以下の地域には住民を戻そうとしている。早期帰還者には賠償を上乗せし原発周辺に帰還させる計画だ。戻らないとすれば、自主避難者となり補償は打ち切りとなる。格差と分断は被災者の間を引き裂く。いわき市のように被災地でありながら、4町の被災者の受け入れを行う地域の住民との軋轢も顕在化してきた。27年前に起こったチェルノブイリ原発事故では、いまだに年間被曝量5ミリSv以上の地域は強制移住となっている。

被曝を避ける権利と避難の権利をうたったはずの「原発事故子ども被災者支援法」は、移住や保養、検診についても実効性を持たずじまいだ。

原発事故と津波被害を受けたJR常磐線富岡駅を日中の立ち入りが可能となった2013年と2014年の春に訪ねたが、失われた駅舎と崩壊したホーム、陸橋が残されたままだった。今年1月に屋根や陸橋が撤去されたと知る。またひとつ記憶が遠ざかることに。

大丈夫なことは何ひとつない。それが4年目の意味か。(大塚恵美子)