旧警戒区域 富岡町を再訪

2015年5月31日 23時54分 | カテゴリー: 政治を変える

5月終盤、福島第一原発立地に近い福島県双葉郡の旧警戒区域を訪ねた。全線開通となった常磐道を北上し、富岡町(福島第一原発から10キロ圏内)へは3回目の訪問となるが、今回は、富岡町民で現在はいわき市に避難しているTさん(ふたば商工株式会社)の案内で広野町、楢葉町を抜け日中は3時まで滞在が可能となっている富岡町の居住制限区域に4時間ほど立ち入る。夜ノ森の桜並木が知られている富岡町は、いまだに避難指示が続いており、本来「放射線管理区域」として放射線管理をしなければならないレベルの場所である。

昨年と大きく変わったことは、森林も個人宅もあちこちでの除染作業が目立つ。除染には大手建設会社の下請け孫請けがあたり外国人労働者の姿も目立つ。津波で損壊した富岡駅舎、階段、プラットフォームは今年2月に撤去されバリケードが張られ、見えていた海は、フレコンパックの山で隠され風景が一変した。
富岡駅に隣接し、5年間で220tの処理能力の仮設焼却施設ができ、10万ベクレル以下の放射性廃棄物、除染土がフレコンパックに詰められあちこちに山積みされている。減容化ということは空気中への拡散にもつながる。以前は空き地や畑に積まれていたフレコンパックから草が生えだしているものもあった。
海から20m以上の高台に上がると福島第二原発が間近に見える。この地点にも津波はやってきた。植込みの線量は2.3μシーベルトだった。すぐ近くの民家には除染済みの印が。除染とはいえ、表土をはぎ、屋根はウェスで拭き、塀はデッキブラシで塵を払う、といったものだ。道路は高圧で水を流し、放射性物質を移す作業だ。

時間の止まった町で、着々と帰還の準備が進む。帰還困難区域は依然として存在し、道を隔てて居住制限区域、避難指示解除準備区域に分断され、人の関係は絶たれたまま補償の内容が異なってくる。早期の帰宅を促すが双葉郡4町での帰還の希望は12割に留まる。津波と地震からの復興と、目に見えないが健康被害のリスクや人の関係を分断し軋轢をうむ放射能による被災は質が異なる。最悪の環境破壊のみならず、これも原発事故の実像といえる。

福島第一原発では3つの原子炉が溶け落ちたまま冷却のため現在も放射能汚染水を海へ流している。放射能を閉じ込めるという作業を永久につづけなければならない。国は原子力緊急事態宣言を出し法律を順守することなく、人々をこの汚染地に棄民することになる。福島の事故は未だに進行中だ。 

今回は「福島とつながる種まきネットワーク」の仲間とともにスタディツアーでの訪問。宿泊は、いわき市三和町上三坂の築150年の土蔵造りの民家「OJONCO館」へ。この地域に育った女たちが、この地域を離れても市民同士がつながることが必要、と活動をしていた時に、旧家の医師宅を譲られた交流施設だ。夕食は交流のある地元の女性たちの野菜を中心としたおもてなし料理を戴き、地元の酒で交流を深めた。

翌日は、若き社会学者の開沼博さん(福島大学特任研究員)と上三坂の区長永山肇一さんをお招きし「住民にとっての復興とは」をテーマに、今の福島についてのミーティング。開沼先生の著書「はじめての福島学」は、東北・福島への蔑視、差別感を解き明かそうと3.11以前から書き始められたもので、震災後に改めて福島を巡り象徴的なデータ、数字をあげ、風評的な意味合いや「聞く耳をもたない強硬主義の脱原発派」のアンチ福島論に警鐘を鳴らしたものとも受け取れる。

開沼先生のリアルなデータに学び、安全を確認し、野菜や米などを選ぶことはできても、暮らしの安心を得ることはできないのが今の福島であり、稼働を停止している48基の原発の再稼働によって「フクシマ」をこれ以上増やすことはすべきではない。これ以上のリスクは未然に防がなければならない、とミーティングの参加で思った。
上三坂は標高500mの高原地帯で城下町、宿場町の名残のある豪勢な大屋根の建屋が並ぶ水田の美しい村落だ。同様に双葉郡の村落も飯舘村も豊かで美しい里であったろう。その地を戻ることの困難な失われた土地にした事実は重い。

季刊誌「ママレボ」が、4月に福島市阿武隈川河川敷で観測した21μシーベルトの値や、20ミリシーベルトの違法性を問う南相馬の住民たちの特定避難勧奨地点の解除取り消しの提訴など、福島で起きている事実に対する市民の思いの根源を原発推進派はなかったことにしようとするのだろうか。

国は15年度までの復興予算は想定した25兆円を超える26.3兆円となったことから、財源不足を理由に、16年度から被災県にも地方負担を求める考えを示している。また、福島県が自主避難者(3万6000人以上)への住宅支援(無償提供)を17年3月末で打ち切ると報じられた。不条理の原発事故に対する被災者、避難者への「仕打ち」が現実のものとなっている。(大塚恵美子)